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心臓外科と一口で言っても、先天性心奇形、虚血性心疾患(いわゆる狭心症や心筋梗塞)、弁膜症、移植、体外循環(心臓手術の時に用いる人間の心肺機能を代替する装置)、補助人工心臓などと細分化されている。
それぞれの分野で何かトピックスかということは、論文を読みつくすことでつかむことができた。
ところが、いざそれが、自分が日ごろ臨床現場でやっていることとどう関連するか、と考えると、ストレートに結びついていかない。
病棟の患者さんの点滴やガーゼ交換、数多くの検査データの整理といった、駆け出しの外科医の仕事に忙殺される毎日と、心臓外科という学問の最先端の流れには、大きなへだたりがあった。
実際に診療にたずさわっているなかで解決困難な問題に出くわしたとき、それを研究にフィードバックしてこそ、はじめて意味のある研究ができると考えていた私は、そういった理想と、しかしまだ駆け出しの研究者としての自身の未熟さの間にあって、大いなるジレンマにおちいった。
こうして悩んでいるあいだ、一年半前に京都で偶然出会ったB.R教授のことかしきりに思い出された。
思い切って手紙を出してみると、約二週間後に、「君のことはよく覚えています。
もしホプキンスにくるなら、一〜ニカ月くらい滞在してみてはどうでしょう。
それくらいいれば、アメリカでの心臓外科の臨床、研究に循いての概要がつかめると思います。
来られる日程が決まったら連絡を下さい。
病院のすぐ前にホテルがあるので、予約しておきますから」という、思いがけないていねいな返事をいただいた。
学会場のロビーで一度話をしただけの人間に、これだけ温かい手紙を書いてもらえるとは、まるで夢をみているようだったが、問題は、一ヵ月以上も大学を休むことが可能かとうかだ。
手紙をT.S教授に見せると、「こんなチャンスはめったにないから、しっかり見てくるように」と、快く送りだしてくれた。
アメリカへ出発したのは、日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落した翌日、一九八五年八月の暑い日のことだった。
J病院は、一八八九年、有数な貿易商人で金融家だったJ氏(一七九五〜一八七三)の私財によって建てられた病院だ。
当初、内科のW.O、外科のP、産婦人科のK、病理のWの四人が中心となり、病院の基礎が形成された。
この四人の肖像はいまでも医学図書館二階の閲覧室に大切に保存されている。
メリーフンド州ボルチモアは、ワシントン国際空港より車で約一時間。
J病院は、ダウンタウンのど真ん中にある。
正面玄関のドームはこの病院のシンボルで、一〇○年以上前に建てられたそのままの形で残されている。
B.R教授が予約してくれたホテルの部屋から、このドームが真夜中でもよく見えた。
約束の日の朝、六階にある心臓外科のオフィスに向かった。
エレベーターを降りると、廊下の壁じゅうに一九五〇年代からの歴代レジデントの写真が飾られている。
ちなみに一九五〇年のクラス写真では、中央に、B博士、チーフレジデントのC、V両博士、その二年後には、K、M、S博士らと、心臓外科の教科書にかならず出てくるパイオニアたちが星のように並んでいる。
H大学のG、ミネソタ大学のR両博士をふくめると、現在、世界の心臓外科をリードしている人たちの七〇%以上が、彼らの弟子であるといってよいだろう。
約束の午前八時より三〇分も早く着いて、こうした心臓外科の巨人たちの写真を眺めていると、オフィスの方からB.R教授がやってきた。
挨拶もそこそこに一日のスケジュールがはじまった。
JのICUは、すべて個室で一五床。
一人の患者には原則として看護婦(士)が一人、重症の患者には二人ついている。
レジデントが、前夜からの変化を的確にB.R教授に報告する。
オンコール(当直)の日のレジデントは、一時間横になれればいいほうだ。
こうして当直のたびに、術後すぐの患者を一五人も診ていれば、術後管理もあっというまに習熟していくことだろう。
約二〇分でICUの回診を終え、手術室に向かった。
これから二例の冠状動脈バイパス術をおこなうという。
着替えて入室すると、すでに患者の心臓は露出され、体外循環の準備ができていた。
心臓の手術は、静止術野を得るために、カリウムの添加された心停止液(四度)を注入し、心臓の動きを止めておこなうケースが多い。
手術中、心臓以外の臓器への血流を維持ずる目的で、右心房から血液を抜き(脱血という)、上行大動脈から血液を戻し(送血)、ポンプと人工肺を用いて心臓と肺のはたらきを代替させるが、これを称して体外循環という。
日本の大学病院における手術との大きな違いは、まず一つの手術に入っている医者の人数だ。
アメリカの場合、多くて三人、手術の大事なところはほとんど術者(執刀医)と第一助手の二人ですすめてゆく。
それに比し、日本では四〜五人入るのが通例で、術者が心臓を縫いやすいよう保持する係、術野にたまった血液を吸引する係など、こまかく決められている。
さらに驚いたのは、B.R教授が手術台の左側、すなわち第一助手の位置に入ったことだった。
日本では、教授が手術に入ってくれば、術者の位置に入るのがあたり前だ。
「いつも第一助手の位置に入られるのですか」と質問すると。
い手術などは、術者側でおこなうよ。
しかしここは教育病院なんだから、レジデントを一人前の心臓外科医に育てる使命がある。
だから冠状動脈バイパスなどの手術には、三年間の心臓外科の研修の一日目からレジデントに術者として入ってもらうんだ。
」毎年新しいレジデントが入ってくる七月には、手術時間が平均して一時間くらいのびるが、一ヵ月もすれば、通常の時間(四〜五時間)内にたいていの手術は終わるようになる。
レジデントに手術をさせたからといって、合併症が増えたり死亡率があかることは決してない、という話だった。
そして、レジデントが縫う一針一針に、B.R教授は次々と激励の言葉をかける。
たまに満足しない動きをしても、「いまのはどうかなあ」というくらいだ。
日本では、いくつかの施設で、「どこを見ているんだ」「ちっともうまくならねえなあ」などと、体育会系のシゴキに近いようなやり方に耐えながら手術を覚えるのを目の当たりにしていたので、Jの手術室で見た光景は、まったく新鮮なものだった。
二例の冠状動脈バイパス術を終え、夕方になって教授室に戻ると、滞在中のひまな夜に読むようにと、B.R教授は一冊の本を貸してくれた。
心臓移植の本だ。
「われわれSのS.W教授のもとで教育をうけた者たちとはかなり意見の違うところもあるが、参考になるから読んでみなさい」という。
S.W教授は、一九六五年以来、約三〇年にわたって、S大学心臓外科のチーフとして数多くの心臓外科医を育てる一方、心臓移植を、実験的な治療から、末期の心臓病患者に対する確立した冶療にまで育て上げるのに大きな貢献をした人として有名だ。
あとに述べるように、世界で一例目の心臓移植は、一九六七年一二月三日に南アフリカのV博士によっておこなわれたが、移植後の心筋バイオプシーによる拒絶反応の診断など、いまでも心臓移植に欠かせない技術の多くが、S.W教授のリーダーシップのもとにS大学で開発された。
そのS.W教授の影響下にある人たちとV博士との意見の違いとはどういうことかと尋ねると、「まず心臓移植にたいする姿勢だね」とB.R教授はいう。
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